心理士、教習所に通う。
30歳にして、運転免許を取ろうと、2か月半前から教習所に通い始めた。
現在、卒業検定を週末に控えている状態で、あともう少しというところだが、予想をはるかに超えてしんどい。
技能教習は、ほぼ毎回泣きながら帰っていた。
帰宅してからも泣いていたり、呆然としていたり、ここ数年治まっていた過食嘔吐が再発して常習化していたり。
何でここまでしんどくなっているのか、自分でもよく分からなかった。
怖い指導員がいるとか、週6フルタイムで働きながら通うのがしんどいとか、初めから向いてないと分かっていた運転に挑むのが苦痛だとか、下手したら生死にかかわる責任だとか、この歳で新しいことを始める労力や怒られることの恥だとか、思いつく理由はいろいろとある。
ただ、それでも疑問だった。
ある日、教習も後半に差し掛かったあたりで、帰りにホームで泣きながら、ふと思ったことがある。
心理士の仕事をしているが、この世界にどっぷりと漬かっていると、つらくても救われる世界にいるとつくづく感じる。
人の心を扱う仕事だから、まずは自分のことを知らないといけない。
それは、簡単なようで、非常にストイックでサディスティックな訓練である。
時には普通に暮らしていたら、まずそこまで知らなくていいというようなことも、深く掘り下げ、突き詰め、問いかけ、そして刺す。自分の内に。
しかし、我々心理士は、意味づけたり、物語を紡いでいったりすることのできる生き物である。
たとえて言うなら、高い所から突き落とされても(あるいは自らジャンプしても)、落下場所にはクッションがあるように、落ちるショックは受けてもちゃんと包み込んでもらえる。
「自分の問題なんだけど」という、この世界の中で起こるやり取りではもはや枕詞みたいになっている防衛は、あらかじめセーフティーネットがあるのが前提となっている。
それが、一歩外に出たらどうだ。
「自分の問題」は、ただの「問題」なのだ。
当たり前のことだが、まごうことなき、もう、ただの課題であり、欠点であり、弱点であり、汚点であり、恥であり、無駄である。
それ以上でも以下でもない、そのままの意味がそこにある。
高い所から落ちて、そのまま、コンクリートに叩きつけられている気分なのだ。
心理の世界では、現実を突きつけられることを「直面化」という。
文字通りの、直面化。
こんなこと、社会のみなさんは日々やり過ごしているというのか。
大学院生のとき、ある教授に、
「あなたは、対人援助の世界でないと生きていくのが難しいかもね」
と言われて、相当ショックを受けたものだが、つまり図星だったからなわけだが、
本当にその通りだと、改めて感じる。
その事実にまた、30歳の惨めな自分に、泣けてくる。